学びのスポット

南風原陸軍病院壕跡

〒901-1100 沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武地内 黄金森公園
Tel.

忘勿石之碑

〒907-1434 沖縄県竹富町西表島南風見田の浜
Tel.

戦争マラリア慰霊碑

〒907-0023 沖縄県石垣市石垣961-15
Tel.

宮古島市総合博物館(戦争展示)

〒906-0011 沖縄県宮古島市平良字東仲宗根添1166-287
Tel.

公益質屋跡

〒905-0501 沖縄県国頭郡伊江村東江上
Tel.

芳魂之塔

〒905-0504 沖縄県国頭郡伊江村西江前32
Tel.

八重山平和祈念館

〒907-0014 沖縄県石垣市新栄町79
Tel.

健児之塔

〒901-0333沖縄県糸満市字摩文仁548
Tel.

白梅之塔

〒901-0362沖縄県糸満市字真栄里1837-1
Tel.

シムクガマ

〒904-0322 沖縄県中頭郡読谷村波平438
Tel.

首里城地下 第32軍司令部壕

〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志町1丁目
Tel.

慶良間チージ(シュガーローフ)

〒900-0006 那覇市おもろまち1-6 安里配水池 展望所内
Tel.

嘉数高台公園

〒901-2226 沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5
Tel.

沖縄愛楽園

〒905-1635 沖縄県名護市済井出1192
Tel.0980-52-8331(代表)

わびあいの里 反戦平和資料館 ヌチドゥタカラの家

〒905-0502 国頭郡伊江村字東江前2300-4
Tel.0980-49-3047

チビチリガマ

〒904-0322 沖縄県中頭郡読谷村波平1136-1
Tel.098-958-6494

道の駅かでな

〒904-0202 中頭郡嘉手納町屋良1026-3
Tel.098-957-5678

沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリート

〒904-0004 沖縄市中央2丁目2−1
Tel.098-929-2922

前田高地(浦添グスク・ようどれ館)

〒901-2103 浦添市仲間2丁目53-1
Tel.098-874-9345

佐喜眞美術館

〒901-2204 宜野湾市上原358
Tel.098-893-5737

対馬丸記念館

〒900-0031 那覇市若狭1-25-37
Tel.098-941-3515

国際通り

〒900-0013 那覇市牧志 3-2-10 てんぶす那覇3階 (那覇市国際通り商店街振興組合)
Tel.098-863-2755

糸数アブチラガマ

〒901-0606 南城市玉城糸数667-1
Tel.098-852-6608

沖縄陸軍病院南風原壕群20号

〒901-1113 島尻郡南風原町喜屋武257
Tel.098-889-7399

南風原町立南風原文化センター

〒901-1113 南風原町喜屋武257
Tel.098-889-7399

旧海軍司令部壕

〒901-0241 豊見城市字豊見城236
Tel.098-850-4055

魂魄の塔

〒901-0333 糸満市字摩文仁444
Tel.098-997-2765

平和祈念公園

〒901-0333 糸満市字摩文仁444
Tel.098-997-2765

沖縄県平和祈念資料館

〒901-0333 糸満市字摩文仁614-1
Tel.098-997-3844

ひめゆりの塔 / ひめゆり平和祈念資料館

〒901-0344 糸満市字伊原671-1
Tel.098-997-2100

沖縄愛楽園

沖縄愛楽園

所在地
〒905-1635 沖縄県名護市済井出1192
電話番号
0980-52-8331(代表)
屋我地島の美しい海に囲まれた沖縄愛楽園(名護市)の歴史は、ハンセン病という「国策による隔離」の障壁のなかで「沖縄戦の戦禍」に巻き込まれた、二重の苦難の記憶を刻んでいる。激しい地上戦のなか、園外へ逃げる自由すら閉ざされた入所者たちは、手足の不自由な身体で命の砦となる防空壕を掘り進め、極限の飢えや疫病と闘いながら、過酷な戦禍を生き延びねばならなかった。亡くなられた約300人もの尊い命と、戦後もなお続いた排除の歴史は、今も園内に静かに残る戦争遺跡「早田壕」や、故郷へ帰れぬ遺骨が眠る納骨堂とともに、人権と平和の尊さを私たちに静かに語りかけている。

嘉数高台公園

嘉数高台公園

所在地
〒901-2226 沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5
電話番号
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宜野湾市にある緑豊かな嘉数高台公園は、沖縄戦でいちばんの激戦地となった、悲しい歴史の記憶を今に伝えている。激しい砲弾の雨が降り注ぐなか、兵士や多くの住民が命を落とした。園内に残る「弾痕塀(だんこんべい)」に刻まれた無数の弾の跡や、今も残る陣地壕の跡は、当時の激しい戦いを無言のまま生々しく伝えている。地上戦から長い年月が流れた今、展望台からは遠くは米軍上陸の地の読谷村残波岬、最寄りの普天間飛行場が見渡せる。

慶良間チージ(シュガーローフ)

慶良間チージ(シュガーローフ)

所在地
〒900-0006 那覇市おもろまち1-6 安里配水池 展望所内
電話番号
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那覇市の新しい街並みを見下ろす慶良間チージ(シュガーローフ)は、かつて沖縄戦で最も激しい丘の争奪戦が行われ、日米合わせて数多くの命が消えていった場所である。アメリカ軍から「シュガーローフ(砂糖の塊)」と呼ばれたこの小さな丘は、たった1週間のあいだに陣地が激しく入れ替わり、一歩も引けない凄惨な戦場となった。かつて地獄のような砲撃の雨が降った丘は、いま安里配水池の展望所となり、周りには賑やかなショッピング街や高層マンション、新都心が広がっている。

首里城地下 第32軍司令部壕

首里城地下 第32軍司令部壕

所在地
〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志町1丁目
電話番号
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"琉球王国時代の象徴の地下に広がる、旧日本軍第32軍司令部壕は、沖縄戦で日本軍がもっとも重要で作戦を決める中心とした「最後の砦」の跡である。 本土(日本の中心)での戦いを遅らせるため、首里城の地下には約1キロメートルもの長いトンネルが掘られた。そこでは、兵士や沖縄の学徒など1000人以上が、暗く狭い地下の中で激しい砲撃の恐怖に耐えていた。日本軍がここを捨てて南部へ逃げたことで、多くの住民が巻き込まれ、悲劇はさらに広がっていく決定の場となった。"

シムクガマ

シムクガマ

所在地
〒904-0322 沖縄県中頭郡読谷村波平438
電話番号
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読谷村にあるシムクガマは、全長約2,570メートルにおよぶ自然の洞窟であり、沖縄戦のさなかに「約1,000人の命が救われた場所」として語り継がれている。アメリカ軍が迫り、ガマの中が恐怖と絶望による大パニックに陥ったとき、かつてハワイで暮らした経験を持つ2人の老人が立ち上がった。「アメリカ兵はむやみに人を殺さない」と命がけで住民を説得し、英語で投降の交渉を行ったのである。すぐ近くのチビチリガマで凄惨な悲劇が起きてしまったのとは対照的に、ここは人間の叡智と勇気によって全員が光の中へ生還することができた。いまも静かに水を湛える洞窟の入り口は、命の尊さと平和への選択を私たちに深く問いかけている。

白梅之塔

白梅之塔

所在地
〒901-0362沖縄県糸満市字真栄里1837-1
電話番号
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糸満市に佇む白梅之塔は、沖縄戦で看護活動に従事し、過酷な運命をたどった「白梅学徒隊」の女子学生たちを祀る慰霊塔である。わずか10代半ばの少女たち46名が戦場へ動員され、八重瀬岳の野戦病院壕などで、負傷兵の看護や死体埋葬といった凄惨な任務に懸命にあたった。しかし、激しい攻撃により病院は解散され、彼女たちは砲火が吹き荒れる南部へと放り出されてしまう。逃げ惑うなかで多くの命が失われ、真栄里の壕では包囲された恐怖から自ら命を絶つ悲劇も起きた。

健児之塔

健児之塔

所在地
〒901-0333沖縄県糸満市字摩文仁548
電話番号
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糸満市の平和祈念公園内に佇む健児之塔は、沖縄戦において「鉄血勤皇隊」などとして戦場に動員され、命を落とした男子学生たちを祀る慰霊塔である。沖縄師範学校男子部の生徒たち、わずか10代半ばから20代前半の少年たち380名余りが軍隊に組み込まれた。彼らは最前線での陣地構築や、弾雨が飛び交うなかでの伝令(命令を伝える役)、爆弾を背負って敵の戦車に突撃する斬込(きりこみ)など、あまりにも過酷な任務を強制された。戦況の悪化にともない軍司令部とともに南端の摩文仁(まぶに)へと追い詰められ、学舎の命運とともに多くの若い命がこの地で散っていった。

八重山平和祈念館

八重山平和祈念館

所在地
〒907-0014 沖縄県石垣市新栄町79
電話番号
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沖縄戦におけるもう一つの悲劇である「八重山戦争マラリア」の史実を中心に、住民の強制疎開や戦争被害の記録を伝える施設である。八重山諸島では激しい地上戦こそなかったものの、軍の命令により住民たちはマラリアの有毒地帯(危険な山間部)へ強制的に避難させられた。不衛生な環境と極限の飢えのなかで病が猛威を振るい、地上戦の砲弾に当たることなく約3,600人もの尊い命が奪われた。軍によって危険地帯へ追い込まれたこの歴史は、本島とは異なる形でもたらされた戦争の不条理を示している。館内に展示された遺品や生存者の証言は、奪われた日常の重みと、命を脅かす戦争の本質を私たちに静かに訴えかけている。

芳魂之塔

芳魂之塔

所在地
〒905-0504 沖縄県国頭郡伊江村西江前32
電話番号
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伊江島に佇む芳魂之塔は、沖縄戦における屈指の激戦地となった伊江島守備隊の軍人と、巻き込まれた数多くの島民を合祀する、島内最大級の慰霊碑である。1945年4月、アメリカ軍の猛烈な艦砲射撃と上陸作戦により、伊江島はわずか数日間のうちに全島が激しい戦火に包まれた。軍民一体となった凄惨な防衛戦が繰り広げられるなか、少年や女性を含む多くの住民が戦闘に巻き込まれ、島の人口の約半数にあたる1,500人以上の尊い命が失われた。凄惨な地上戦により焦土と化した城山(タッチュー)のふもとに立つこの塔には、今も3,500柱を超える御霊が眠っている。

公益質屋跡

公益質屋跡

所在地
〒905-0501 沖縄県国頭郡伊江村東江上
電話番号
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伊江島に佇む公益質屋跡は、1929年に建築された村営の金融施設であり、伊江島戦における激しい砲撃に耐え抜いた数少ない戦争遺跡である。沖縄戦のさなか、頑丈なコンクリート造りであったこの建物は、住民たちの避難壕や負傷者を治療する救護所として使用された。周囲のすべての建物が激しい艦砲射撃によって破壊され焦土と化していくなか、この質屋跡だけが奇跡的に形を留め、多くの人々の命を繋ぎ止める砦となった。現在も壁面に残る無数の弾痕や、大きく崩れ落ちた天井の凄惨な姿は、当時の激しい戦闘の様子をそのままに留めている。

宮古島市総合博物館(戦争展示)

宮古島市総合博物館(戦争展示)

所在地
〒906-0011 沖縄県宮古島市平良字東仲宗根添1166-287
電話番号
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宮古島市総合博物館は、宮古諸島の歴史や自然を伝えるとともに、沖縄戦におけるもう一つの戦禍である先島諸島の戦争体験や住民生活の記憶を留める場所である。宮古島では激しい地上戦こそ起こらなかったものの、日本軍の膨大な航空基地(飛行場)が建設されたため、アメリカ軍による激しい空襲と艦砲射撃の標的となった。また、制海権と制空権を握られたことで物資が完全に途絶え、極限の食糧難による飢餓や、蔓延したマラリアによって、多くの住民や兵士が命を落とした。館内の戦争展示室に並ぶ遺品や写真、凄惨な体験が綴られた証言記録は、本土決戦への盾とされ、地上戦とは異なる形で極限の苦難を強いられた宮古島の不条理な歴史と、平和への願いを私たちに静かに訴えかけている。

戦争マラリア慰霊碑

戦争マラリア慰霊碑

所在地
〒907-0023 沖縄県石垣市石垣961-15
電話番号
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石垣市のバンナ岳のふもとに佇む戦争マラリア慰霊碑は、沖縄戦の最中に軍の命令によって強制疎開させられ、マラリアによって命を落とした多くの八重山住民を追悼する慰霊碑である。石垣島では激しい地上戦こそなかったものの、日本軍の命令により、住民たちは蚊が媒介するマラリアの有毒地帯であった山間部などへの移住を余儀なくされた。不衛生な環境と極限の飢餓のなかで病魔が猛威を振るい、地上戦の砲弾に当たることなく約3,600人もの尊い命が奪われた。本島とは異なる形で多くの一般住民が犠牲となったこの「戦争マラリア」の悲劇を、二度と繰り返さないという決意とともにこの碑は建てられた。

忘勿石之碑

忘勿石之碑

所在地
〒907-1434 沖縄県竹富町西表島南風見田の浜
電話番号
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西表島の南風見田の浜に佇む忘勿石之碑は、沖縄戦のさなかに波照間島の全島民が強制疎開を強いられ、凄惨なマラリアの悲劇に見舞われた記憶を留める碑である。1945年、軍の命令によって住み慣れた島を追われた島民約1,500人は、マラリアの有毒地帯であった西表島への移住を余儀なくされた。不衛生な過酷な避難生活のなかで病魔が猛威を振るい、当時の波照間国民学校の校長が、帰郷を前に「この苦難を忘れるな」との願いを込めて、海岸の巨石に「忘勿石 ハテルマ」の文字を刻み込んだ。後に島民は故郷へ戻ることを許されたものの、感染した人々は復帰後も次々と倒れ、結果として島民の約3分の一にあたる約500人もの尊い命が失われた。

南風原陸軍病院壕跡

南風原陸軍病院壕跡

所在地
〒901-1100 沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武地内 黄金森公園
電話番号
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南風原町の黄金森公園内に佇む南風原陸軍病院壕跡は、沖縄戦において開設された日本軍の野戦病院の跡であり、凄惨な医療現場の記憶を今に伝える貴重な戦争遺跡である。沖縄本島にアメリカ軍が上陸すると、首里の病院からこの黄金森に掘られた約30本の横穴壕へと機能が移された。薄暗く不衛生な壕内には、ひしめき合う負傷兵のうめき声が響き渡り、麻酔もないままの手術や手足の切断が日常的に行われていた。そこでは、地元のひめゆり学徒隊の女子学生たちも動員され、看護や死体埋葬などの過酷な任務にあたった。是非、併設されている南風原文化センターの常設展示と合わせて見学に行くことをお勧めしたい。

チビチリガマ

チビチリガマ

所在地
〒904-0322 沖縄県中頭郡読谷村波平1136-1
電話番号
098-958-6494
読谷村にあるチビチリガマは、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した翌日の1945年4月2日、「集団自決(強制集団死)」が行われた場所である。当時は「アメリカ兵は恐ろしい怪物(鬼畜)だ」と教えられていたため、捕まってひどい目に遭わされることを恐れた住民たちが、暗いガマの中で愛する家族や親族同士で命を奪い合うという、地獄のような悲劇が起きてしまった。のちに人々は、犠牲になった約80人の死を深く悼み、二度とこのような戦争を繰り返さないよう「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建てた。いまも深い緑に囲まれて佇むガマの姿は、戦争の狂気と平和の尊さを私たちに静かに訴え続けている。